古くは
701年に天竜川最古の水害記録が残される。特に伊那谷の出口に当たる
天竜峡付近は川幅が急激に狭隘となることから、伊那谷は特に
洪水の被害が顕著であった。天竜川最大の
洪水は
1715年の「未(ひつじ)満水」と呼ばれる洪水で、伊那谷はあたかも湖水のようなありさまだったと記録に残されている。これに対し、流域の住民は様々な方法で水害に対処していた。
上流部の
信濃においては江戸時代中期の
1746年、
飯田藩主・堀親長は重臣の黒須楠右衛門を普請奉行、惣兵衛(姓不詳)を作事奉行として現在の
下伊那郡高森町の天竜川に堤防を建設。さらに「天竜井」という用水路を開削し
灌漑を図ろうとした。この「
惣兵衛川除」は
1752年に完成し、飯田藩内の水害を軽減した。上流の
上伊那郡片桐(現在の
中川村片桐)では
1772年より「
理兵衛堤防」の建設が始まった。これはこの地の名主である
松村理兵衛忠欣が天竜川の
治水を目的に護岸工事を始めたものである。この事業はやがて
高遠藩の事業に昇格、忠欣の跡を継いだ子の常邑、孫の忠良にも遺志は引き継がれ、松村家3代に亘るこの事業は
1808年の完成まで実に58年間、57万6千人の人員を費やし近世天竜川治水史における最大の河川工事となった。