豊臣秀吉の死後、次の天下人の座を狙う
徳川家康は、慶長5年、度重なる上洛命令を無視した
上杉景勝を公儀に反抗する逆臣として征伐すると称し、
会津攻めを開始した。すでにこの前年には、家康と並び称された親豊臣派の大老・
前田利家が病死しており、
五奉行の
石田三成ら反家康派も失脚していた。家康は
畿内の守りとして、譜代の家臣である
鳥居元忠、
内藤家長、
松平家忠、
松平近正ら1800名ほどの兵を
伏見城に残すに留め、徳川軍主力を率いて会津攻めに向かう。畿内に軍事的空白が生まれたことを好機と見た石田三成は、
毛利輝元、
宇喜多秀家、
大谷吉継ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵し、7月17日、家康が
大坂城西の丸に残していた留守居役を追放して、家康に対する13か条の弾劾状を叩きつけた。翌7月18日には、西軍総大将である毛利輝元の名で、伏見城の守将・鳥居元忠に対して伏見城を明け渡すように命令が出された。家康に死守を命じられていた元忠はこれを拒絶し、西軍は大挙して伏見城を包囲、攻撃を開始した。
状況を打開するため、島津義弘は配下の長束正家に伏見城内にいた甲賀衆の妻子一族を捕縛させ、内通しなければ家族を
磔にすると脅迫することを命じた。正家は
近江水口岡山城の領主であったため、甲賀衆とも親しい仲にあり、伏見城内には徳川氏の
伊賀衆の他に
甲賀衆もいた。甲賀衆はこの脅迫に応じ、伏見城内に火事を起こした。この裏切りによって支えきれなくなった元忠は8月1日に討死し、伏見城はようやく落城した。