ピサの起源は数世紀に渡って不明なままである。市は2つの川、
リグリア海で潟地帯を形成する
アルノ川とセルキオ川の合流地点にある。人、
ギリシャ人、
エトルリア人、といった多様な民族が市の創立者として名を連ねてきた。紀元前5世紀からの考古学的痕跡は、市が海に面してギリシャ、
ガリアと交易を行っていたことを立証している。エトルリアの
ネクロポリスの存在は、1991年のアレーナ・ガリバルディ(プロサッカークラブ、
ピサ・カルチョのホームグラウンド・スタジアム)での発掘作業中に発見され、エトルリアの痕跡を明らかにするため許可が出された。
ピサ海運の役割は既に古代から、船嘴の発明のために自治体としての地位は揺るぎのないものとなっていた。当時小さな村にすぎなかった
ジェノヴァから、
オスティアへ至る沿岸唯一の港湾として、ピサは利用されていった。ピサは、ローマ海軍の対リグーリア人、
ガリア人、
カルタゴ人遠征の基地とされた。紀元前180年、ローマ法の下で植民地ポルトゥス・ピサヌス(
Portus Pisanus)となった。紀元前89年、ポルトゥス・ピサヌスは
ムニキピウムとなった。皇帝
アウグストゥスは重要港として植民地の防衛を強化し、その名をコロニア・ユリア・オブセクエンス(
Colonia Iulia obsequens)へ変更した。313年以降、
キリスト教の
司教座が置かれていた。
カール大帝が、ロンゴバルド王指揮のロンゴバルド軍を774年に打破した後、ピサは危機を迎えたがすぐに回復した。政治的には
ルッカ公国の一部となった。930年、ピサはトゥスキアの辺境侯内の州都となった(この地位は
神聖ローマ皇帝オットー1世が即位するまで保持された)。ルッカは首都となったが、ピサはそれをしのぐ最重要都市となった。10世紀半ばの
クレモナ司教リウトプランドは、ピサを『トゥスキア州の首都』(Tusciae provinciae caput)と呼んだ。そして一世紀後、トゥスキア辺境侯は
ピサ侯と普通に称されるようになった。1003年、ピサは、ルッカの方針に反し、イタリアにおける最初のコムーネ戦争の主役となった。海軍の要衝としての観点から、9世紀以降
サラセン人海賊の出現が市をその海軍力の拡大に駆り立てることとなった。続く年月、この海軍力がピサにさらなる拡大の機会を与えた。828年、ピサ艦隊が北アフリカを猛襲した。871年、ピサ艦隊はサラセン人からの
サレルノ防衛の主力となった。970年、ピサ艦隊は、
カラブリア沿岸の前線で東ローマ帝国艦隊を打ち負かすという、オットー1世の遠征に強力な支援も行った。